自分と向き合う
人間関係の基礎は親子関係でつくられる

僕たちは幼少期にどういう環境で、育てられたのかと言うのが基本となって、人間関係をつくっていっているところがあります。親子、兄弟関係が基本パターンとなって、今の仕事の人間関係や、友人関係に当てはめているのです。
悩みなどを聞いていても対人関係の根っこを見てみると必ず家族との関係に行き着きます。そして、人間関係が親密な関係になるほど、小さいころに作られたパターンが大きく出てきます。結婚して伴侶との関係でも大きく出てきますし、子供ができた時に子育てするようになったら自分の親子の関係パターンが大きく出てきます。人格形成において幼少期の頃って大きいなと実感しています。
それを振り返って変えていくのがカウンセリングです。たしかに辛かった過去は変えられないかもしれませんが、過去の出来事のとらえ方や解釈はいくらでも変えることができます。
過酷な環境で不器用にしか生きられない人でも、過去のとらえ方が変わると普通の人以上に幸せになっていくことはたくさんあります。そのために必要となってくるのが自分と向き合うことなのです。辛ければ辛いほど過去を思い出すのは苦しいかも知れませんが、そこから目を背けていては同じパターンのままでいることになります。
小さいころの両親は完璧

誰もが小さいころというのは、大人って完璧な存在だと思ってしまうところがあると思います。特に両親を疑うことはなくて、絶対に正しくて間違ったことを言うとは思いもしないですよね。
小さいころは親のように30歳の大人を見ると、すごく立派に見えて憧れますけど、自分がいざ30歳になって大人になってみると、小さいころに描いていた完璧な大人像とはかけ離れた存在で、学生気分が抜けていない、まだまだ考えが幼児なのに、いつの間にか年をとって、いつの間にか大人になっていて、いつの間にか子育てをするようになるのだな。ということがわかると思います。
でも、子供のころは両親が絶対に正しいと思っているので、両親から言われたことを無条件に信じていることってたくさんあると思います。
例えば、僕の家庭は貧しかったので、小さいころは散髪店に行かせてもらえませんでした。それで両親からは散髪屋に行くと耳を切られてしまうから、行かせられないと言われていたのです。そんな両親の嘘を、ずっと疑うことなく、信じていたところがあります。
そんなもの良く考えれば耳を切るような店が続くはずがないと思うのですけど、小さいことは疑わずに信じていて、青年になって散髪店に行くのが怖かった思い出があります。こんな小さなことでも疑わずに信じるのですから、他のちょっとした言動も当然疑うことなく信じてしまっています。
その両親の知らないうちに刷り込まれた言動や価値観が、自分を苦しめていることってたくさんあると思います。
あなたって何をやらしてもダメだね。
(そうか僕は何をやらしてもダメな人間なんだ!!)
人前では行儀よくしていないとダメ
(人の前では自分を抑えて、きちんとしな子はダメな子なんだ!)
なんであの子にはできて、あなたにはできないの?
(あの子よりもできるようにならないと愛されないのだ!!)
などと無条件に信じ込んでいることってたくさんあると思います。
それは今考えるとおかしなことってたくさんあります。でも、信じ込んでいると、それがどんなにおかしなことでも、疑うことなく親の価値観にしたがって生きることになってしまうのです。その価値観があるから苦しんでいる人がたくさんいるのです。
反抗期を通って自立する

僕たちが本当の愛情を持つためには、自立することが必要で、そのためには反抗期を通らないといけないのでしょう。依存状態にあるところから一度、それを断つことをして、一人で立つことができる。子供は親離れができるのでしょう。そして、親も子離れができるでしょう。
それから再びつながることができたとき、そのつながりは前のつながりより深くなっていることでしょう。それが親に迷惑をかけたり、困らせることになったとしても、自分を自立させるためには必要な道のような気がします。それは親子が適度な距離を保つためには必要な痛みだと思います。
そして、思いきり反抗した後は自立した人間として、自然に両親に感謝することができるようになってくるものです。でも、最初の親から反抗期をむかえないで、自立できていないのに、親だらか感謝しなければいけないと思って、感謝に持っていこうとすると、いつまでも、自立することができずに、親の言うとおりの人生を歩んでしまいます。感謝は一番最後でも良いのです。
反抗期を通して、親や世間に背を向けることは、とっても勇気がいることですけど、必要な経験だと思います。そうやって、親の希望通りの人生ではなく、自分の本当にやりたかったことを遠慮しないでやる、自分らしい人生を歩めるようになるでしょうね。
成長段階は「依存」→「自立」→「相互依存」

人間の成長段階というものがあって
「依存」→「自立」→「相互依存」
となっているようです。
まずは、依存の段階です。人は生まれたときは誰でも誰かに依存しないと生きていけませんよね。存分に甘えて、迷惑をかけて、たっぷりと愛情をもらい、お世話をしてもらう段階です。誰かに認めてほしい、愛してほしい、仲間に入れてほしい、というのも依存です。
ここで十分に欲求が満たされると、次の自立の段階に進みますが、喪失してしまうとこの段階でとどまることになります。大人になっても依存段階の人は何かもらおうとする自分を満たすための行為に走ります。
次に自立の段階に入ります。ここでは対象となっている依存者から切り離し自分一人で歩けるようになる段階です。自分を主張していき、たとえ親が反対したとしても自分がやろうと思ったことはチャレンジしていく。
しかし、自立は結びつきからの切り離しですから孤独になってしまうのではないかという恐怖があります。その孤独の恐れを打ち破っていくと、一人の人間として歩いていけるようになるのです。
自立がうまくできないと、隠れた依存として嫌われないための行動や 認められるための行為が繰り返されるでしょう。
最後の相互依存として自立した人になったもの同士が集まって協力する段階です。誰かが犠牲になることなく、それぞれが干渉することなく自分の道を歩きながらも、お互いが助け合いながら一人に人間として本当のつながりができるのです。
だいたいの人は依存状態から抜け出せないでいます。きちんと未完了の欲求を満たしていくことで依存から自立へ、そして相互依存状態にいくことができます。
今、起こっている問題は過去の未完了の問題が原因

僕たちは、問題が起こると解決しなければいけないと思い、どうやったら解決できるのか、懸命に探しますよね。それが相手を変えることだったり、環境を変えることだったり、いろいろとやりますよね。でも、問題って実は小さい頃の心の傷が原因で起こっていることが多いのです。
僕だったら、会社で無視をされるという経験を何度かしました。ちょっとの間ですけど、その時はとっても悲しいです。でも、この悲しさは、今の感情から来ているのではなくて、小さい頃に無視されるて悲しかったという経験から来ていることがあるのです。だから、無視されないように頑張ろうとか、無視する相手を懲らしめてやろうとかしてもあまり意味がないのです。
この場合だったら、僕は小さい頃、学校のいじめで無視されるという経験があります。その時の悲しい感情が、今のちょっとした無視に過剰反応して出てきてしまったのです。その時に、誰にも悲しいと言えずに苦しみをぐっと我慢していました。だから、癒されずに無視されたという経験を封印して悲しい出来事も封印していました。
もし、学校での無視された体験を癒すことができたら、会社で無視されても、過剰反応することなく、そんなに悲しくなることはないでしょう。ただ、合わない人がいて、仕方ないなと思うだけでしょうね。現に、無視されても悲しいと思わない人もいますよね。腹は立つかもしれませんけどね。
このように、僕たちは過去の置き去りにされた感情、心の古傷が、今の出来事によって表に出てきたときに、過剰に反応してしまうところがあるのです。何か過剰に感情が動くことがあったら、それは心の古傷がうずいているという証拠です。だから、今の過剰反応は、過去に置き去りにされた感情が引き起こしたということも言えます。
僕の中にもまだまだ未完了の感情がたくさんあります。きっと皆さんの中にもあると思います。それが少なくなればなるほど、大抵のことが起こっても、心がざわざわせずに平穏な気持ちで、毎日を過ごすことができることでしょうね。
今の問題のほとんどはニセモノで、遠い過去に置き去りにされた満たされない感情が、癒してほしいと言って引き起こしているのかもしれませんね。
どんな条件のもとでしか愛情をもらえなかったですか?

自信が持てないのは、自分自身に正直に生きていないからです。つまりは自分の人生を自分で歩いていないからです。
なぜ、自分自身を正直に生きることができないのか?
ありのままの自分を出すことができないのか?
それは、ありのままの自分を出すと怒られたりしたからです。
きちんと良い子でいることで認められて・褒められた人、逆に、自分のわがままを出すと叱られたり・否定された経験があると、自分の感情よりも他人の感情を優先させなければいけないと思ってしまって、自分自身が後回しになってしまいます。良い子を演じなければ、認めてもらえないとなってしまうのです。
よく親が忙しいから、兄弟の面倒を見ることが当たり前になっている長男、長女の方がいます。この方は人の役に立つことで認められると思い込んでいます。人の役に立たないと認められない、必要とされなくなると思っているところもあるかもしれません。
だから、弱い人を見つけては面倒を見ることに愛情を得ようとしている人もいます。そうやって面倒を見ることで愛情を得ようとしていると、どこかで歪が出てくてしまいます。
面倒みられている人がどんどんとダメ人間になっていく。DVなどの暴力をふるわれるようになってくる、というところまできてしまう人もいます。
誰かの役に立つことで自分の存在価値を証明しようとすると、困っている人を作ってまで、面倒を見ようとするものです。もちろん、やっている本人はそんなこと望んでいませんが、無意識に困っている人を自分が世話を焼くことで必要としてくれるようになるから、常に困った人がいないと不安な状態になってしまいます。
そんなことをしなくても、人の世話を焼かなくても自分には価値があるのだ!何もしなくても価値がある!と思えたら、回りくどい愛情のもらい方をしなくてもきちんと愛情を受け取り、そして与えるという循環ができるようになります。
ただ、小さい頃は誰かの世話をすることでしか愛情をえれなかったですけど、本当の愛情は何かをしたときに得られるものではなくて、何もしなくても、ただそこにいるだけで与えられるものなのでしょうね。それが無条件の愛ということかもしれませんね。
どんな条件でしか愛情をもらえなかったのか?振り返ってみることで、問題の原因がわかったりします。
不幸であることのメリット

不幸であることをやめたいと思いながらも無意識ではやめられないような時があります。時は不幸であることで何か得られているものがあるのです。ここでは5つ取り上げていきます。
①関心が得られる
不幸な自分を人に見せることによって同情やなぐさめをもらっています。 「私はこんなにもひどい環境にいるから、私って可哀そうでしょ!」だから、みんな同情してほしい、もっと愛してほしい、可哀そうな私を見てほしいと心の奥で願っているのです。
②守ってもらえたり、助けてもらえる
私は可哀そうで無力な犠牲者です。だから、可哀そうな私を誰かが助けてくれて当然。自分が幸せになってしまうと誰も助けてくれない、守ってくれないと信じているのです。
③傷つけた人から、理解を愛情を求めている
親など重要な人から傷つけられた人が、心の奥でその人に向かって「お母さんが私を愛してくれなかったから、私はこんなに不幸になってしまったの。どれくらい傷ついたのかわかって!」と主張しているのです。
④罪悪感の苦しみを軽くしている
誰かを傷付けてしまったという負い目をもっていて、罪悪感を抱えていると「私だけ幸せになってしまうと○○さんに申し訳ない」自分は不幸であることで、罪を償おうとしているのです。
⑤傷付けた人に復讐したい
親など身近な人から傷付けられた時、自分がどれくらい傷ついたのかを分からせるためにも、自分が不幸であることによって見せつけようとしていることがあります。幸せになってしまうと、憎い親のことを認めることになってしまう。ずっと不幸でいることで、あなたのせいでこうなったのだと復讐しようとしている。
このようにビックリするでしょうけど、不幸であることにもメリットがあるのです。まずは不幸になることで何を得ているのか?に気づくことが第一歩となります。 気づくことができないと不幸から脱出したいと強く思いながらも、不幸を手放すことができずにもがき続けることになりますからね。
自分と向き合って隠れた動機をきちんと見つめていくことはとっても大切ですね。
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